※この記事は私の勤めるクリニックのホームページに3月20日に投稿したものです(一部修正しています)。
前回までの記事です。
前2回の記事では検査について確率的な側面から述べてきました。
感度・特異度といった検査の特性に加えて、検査前にどれくらい疾患があると想定しているかによって、検査の意義が変わってくるということを述べました。
検査の意義については確率論的なこと以外にも下記のようなことを考慮します。
①疾患の重症度・緊急度
②疾患の自然経過(無治療だとどうなるか)
③治療方法があるかどうか(疾患の自然経過を変えられるかどうか)
④検査が簡便に行えるかどうか
⑤検査の侵襲性
⑥公衆衛生に与える影響
①はイメージがしやすいと思います。心筋梗塞や脳出血のような重症かつ緊急の疾患ならば少し大変な検査でも調べる意義はありますし、軽症で自然に治るような疾患に対して負担の大きな検査を受けたいと思う方はいないと思います。
我々医師は疾患を重症度と緊急度の2つの軸で考えています。当然、重症かつ緊急である場合には直ちに検査・治療が必要です。
重症の疾患は緊急であることが多いですが、重症でも緊急ではないことがあります。たとえば、多くのがんは重症ではあっても数時間・数日では大きく変化しないので緊急の疾患ではありません。従って、がんの種類にもよりますが、確定診断のための生検検査は初診の日には行わずに状況を整えてから行うことが多いです。
やや話が逸れますが「重症」とは「症状が重い(辛い)」こととイコールではありません。たとえば私自身もインフルエンザにかかったことがあり、発熱や頭痛、倦怠感などかなり辛い症状が数日続いたことがあります。体温が高ければ、高いだけ辛いというのが普通だと思います。39度近く熱が出たら感覚的には「重症」でしょう。しかしながら「医学的な重症度」は別の軸で評価します。例えば肺炎ならば、意識の状態・血圧・脱水の有無・動脈血中の酸素飽和度などで重症度を評価します。「自覚的な症状の辛さ」と「重症度」はある程度の相関関係はありますが、完全には一致しません。若い人では医学的には軽症であっても非常に辛く感じる一方で、高齢者や免疫が低下している方などハイリスクとされる方では、患者さん自身の自覚は重くなくても、重症であることは珍しくありません。
次に②と③について述べます。おそらく、この点が医師と一般の方で考え方にギャップが大きいところだと思います。コロナウイルスの検査で「治療法がないから検査の意味はない」という意見を医師側から発信されることがあります。これは論理的には正しいのですが「具合が悪いから検査をして欲しい」という方に対して「治療法がない」という表現をすることで感情を逆なでしてしまっているようにも思えます。医学的な表現では「自然経過を変える治療がない」というのが適切だと思いますが、これを簡潔に伝えることの難しさを感じます。
ある疾患を治療しなかった場合のことを「自然経過」といいます。医学の父、古代ギリシャのヒポクラテスは疾患の自然経過を重視し「病気は、人間が自らの力をもって自然に治すものであり、医者はこれを手助けするものである」と述べました。
その後、2000年以上が経っても、つい最近までは多くの疾患に対して自然経過を変えるような治療は殆どありませんでした。現代では「病気=異常」⇒「原因を探して治療」という思考が広く浸透しているため、疾患の自然経過を変えることは当然のことと思われるかもしれませんが、このようなことができるようになったのは長い人類の歴史の中ではごく最近のことです。
よく考えてみると、現代でも自然経過を変えられない疾患というのは少なくありません。その代表がウイルス性上気道炎(かぜ)です。殆どのかぜウイルスには抗ウイルス薬のような自然経過を変えるような薬はないので、対症療法で症状を和らげながら人体に備わった免疫力で治すことになります。このような疾患に対しては、診断がついてもつかなくても根本的な治療が変わらないので、検査をして診断を確定させる意義が乏しいことをご理解いただけると思います。
自然経過を最も大きく変えられる疾患は細菌性肺炎などの細菌感染症です。細菌性肺炎で治療をしなかった場合は殆ど致命的です。しかし、特に合併症のない若い方が仮に細菌性肺炎にかかったとしても、免疫力に加えて適切な抗生剤治療をすることによって殆どの場合は治す(完治する)ことができます。従って、熱・咳といった症状がある方に細菌性肺炎なのかどうかを考えることは大きな意義があります。
しかしながら、殆どの疾患は感染症のようにクリアカットにはいきません。よく考えてみると、高血圧や糖尿病など多くの生活習慣病は薬によって治っているわけではありません。しかし、薬を使った場合は使わない場合と比べて、疾患としての進行を遅らせたり、合併症を減らしたりすることができます。これは治療によって自然経過を変えているわけです。
稀に「進行がんの治療は治らないので意味がない」という意見を耳にすることがありますが、治療によって進行を遅らせる(自然経過を変える)ことができれば、高血圧や糖尿病と同じように治療を行う意義は十分にあると考えられます。「完治しないから治療の意味はない」というのは暴論です。
医療では自然経過を変えられるものを優先して調べるという考え方をよく行います。その代表的なものは災害現場、救急医療で行うトリアージです。重症度に応じて優先度をつけていきます。残念ながら救命できないと判断した場合は、他に助けられる方を優先します。災害現場は極端かもしれませんが、人的資源も物的資源も有限であるのは普遍的なことなので、意識するしないにかかわらず、我々は日々トリアージに似た考えで診療を行っています。
たとえば、認知症をきたす疾患は多数ありますが、その中でも治療によって大きく自然経過を変えられるものをtreatable dementia(治療可能な認知症)と呼びます。具体的には甲状腺機能低下症やビタミンB1欠乏症、慢性硬膜下血腫などがないかをまず調べます。
新生児に行うマススクリーニングも同じような考え方をしています。新生児マススクリーニングの対象疾患は2011年に6種類から19種類に拡大されました。日本マススクリーニング学会のホームページによると「治療可能で、かつ放置すれば心身障害を引き起こす病気を持っている子どもを早期発見・早期治療を行い、障害の発生を予防する目的で実施されます」としており、正に自然経過を変えることを意識しています。
このように医療の世界では「治療によって自然経過を変えられる疾患」を探すことは優先されます。すべての原因を探すことは現実的ではありませんし、少し厳しい見方かもしれませんが「診断をしたとしても自然経過を変えられない疾患」よりも「診断をすることによって自然経過を変えられる疾患」を調べる方がコストパフォーマンスの面で優れていることは理解頂けると思います。繰り返しますが、資源は常に有限です。
④、⑤については理解頂けると思います。尿検査のように簡便かつ侵襲性なく行える検査のハードルは低く、多くの人に実施できます。反対に気管支鏡検査のように医療資源を多く使用し、患者さんにとっても侵襲性が高い検査では、多くの人に実施することは現実的ではないでしょう。
⑥についてはやや特殊です。本来、診療は患者さんのためにあります。しかしながら医師法第1条には「医師は、医療及び保健指導を掌ることによつて公衆衛生の向上及び増進に寄与し、もつて国民の健康な生活を確保するものとする」と定められており、公衆衛生の向上と増進も医師の基本的な職務になります。感染症においては仮に疾患の自然経過を変えられない疾患であっても、公衆衛生に与える影響を勘案して検査をすることがあります。サーベイランスの意味合いと他者への感染を減らす目的があります。
ここまでを振り返り、改めてCOVID-19に対する検査の意義について考えてみたいと思います。
まず前回までの記事で述べたのが「検査前確率」によって検査の意義は変わってくるという話でした。「検査前確率」は刻一刻と変わる流行状況によって変わります。従って「COVID-19」に対する検査の意義も刻一刻と変わってくるのです。よく「検査に意味がある派」と「意味がない派」で論争になっているのを目にしますが、そもそも固定できるものではありません。
「検査の目的」によって検査をする意義は変わります。検査はあくまで手段であって、何を目的とするかで方法は変わります。
いま日本で行われている対策は流行のピークを遅らせる対策、重症化のリスクが高い方に感染させるのを防ぐような対策です。
高齢者で慢性疾患を抱えて通院している方(重症化のリスクが高い方)の感染を防ぐという観点では、若年者で重症化のリスクが低い方(その中には本当にコロナウイルス感染者である方もそうではない方もいる)が軽症の状態で大病院で受診をするという状況は望ましくありません。
特にリスクがない方では、軽症のまま軽快する確率が高いことを考えると全例を把握することに首座を置くのは得策ではありません。また、世の中にはコロナウイルス以外の疾患の方が圧倒的に多いことを忘れてはいけません。医療機関のパンクを予防する施策をとらなければなりません。感染症指定病院は、地域の診療の柱になっていることが多く、感染症以外の診療に対するリソースの確保も重要です。この観点から、現在日本で行われている検査の基準は目的に合致しているものと考えます。
PCRという検査の特性上、感度は低く、特異度は高くなります。正確なことは分からないものの、COVID-19のPCR検査は感度50-70%、特異度98-99%ではないかという見解が多いです。検査の特性上、偽陽性は少なく、偽陰性は多くなります。検査をして陰性ならば安心だという意見もありますが「検査で陰性」でも偽陰性の可能性が十分あるため「コロナウイルスではないこと」を証明することはできません。全員に検査をしても全例を把握できるような特性の検査ではありません。
疾患としての自然経過を変えられるかどうかでいうと、現時点では自然経過を変える有効な治療法はありません(ここでいう有効な治療法というのは数例の症例で効いたとかではなく、統計学的な手法で効果が証明され、安全性も担保され、広く一般に使えるという意味です)。発見によって自然経過を変えられないのであれば、患者さん個人の治療という意味では検査意義は大きく下がります。
また、新型コロナウイルス感染症の初期症状はかぜと見分けがつきません。そこで早期から(軽症の時点で)検査をすれば良いのではないかという意見があります。しかし検査をして陽性に出たとしても、重症化を防ぐ方法がありません。結果的に重症化しなかった場合に個人レベルでは不安を感じる時間が長くなってしまいます。軽症者に沢山検査をすると、更に流行が広まったときには軽症者でも入院という方法はとれなくなるでしょう。
世の中には「なんでも早期に発見するのが是」という風潮がありますが、全ての疾患が「早期診断・早期治療」が良いわけではありません。
検査の簡便さ・侵襲性という点からは、特別に侵襲性が高い検査ではないため、体制さえ整えば技術的には広い範囲で行うことは可能な検査です。この意味では状況次第では検査の適応を広げることは検討されます。ただし、検査を施行する医療従事者の防護や検体を誰が搬送するのかなどといった人的コスト面での観点も大切です。
公衆衛生に与える影響という意味合いでいうと、疑わしいケース(検査前確率が高いケース)では検査をする意義は大いにあります。確かに医師が必要と判断しても検査ができないケースがあるのは問題ですが、やはりケースバイケースだと思います。一定の検査基準はあっても結局は状況判断になるので、現場では曖昧な要素も出てくるのは避けられません。
ただ、医療というのはそもそも0から1の間での確率論であり、0か1のデジタルなものではありません。一定のマニュアルが存在する必要はあるものの、医療は常に不確実性を伴うものであり、絶対を保証するものではないので、臨機応変に判断する必要があります。
以上を総合的に考えると、現在日本で行われているような基準で検査を行うことは、目的に合致しており、決して誤った方法ではないと考えられます。
感染症科や呼吸器内科の先生の中での意見も細かい違いはあれど概ね一致しており、同じような意見が毎日発信されています。
この記事にあるように、もし医師や専門家の間での意見が分かれているような認識を多くの方がされているのであれば、それは対立構造を煽るような報道を行う側の問題だと思います。
本稿の本題とは直接の関係ありませんが、コロナウイルスの流行が如何に拡大したとしても、個人レベルで対策ができることは変わりません。手洗いの励行と咳エチケット、科学的なエビデンスがあるわけではありませんが免疫力を落とさないように節制した生活を心がけ、普段の休養をしっかりとることも重要です。
かぜであろうとインフルエンザであろうとコロナウイルスと全て対策方法は同じです。熱やくしゃみ、咳といった症状があれば第1に本人のために、第2に周囲の人のために休めるような体制を整えることが大切です。
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