今回は医学論文の紹介ではなく、少し切り口を変えてコロナウイルスと日本社会について記事を書いてみました。
日本において新型コロナウイルス感染症が現実的な問題になったのはダイヤモンドプリンセス号からだと思います。3月ころから国内でも感染者が増加しはじめ、4月の緊急事態宣言に至りました。その後、いったん新規感染者は大きく減少し、東京でも1日1桁の日が続くこともありましたが、ご存知のように現在は再度感染者が増加してきています。治療方法やワクチンなどいくつかの希望は見えてきているものの、今のところ、感染が終息する兆しは見えていません。コロナとの「闘い」はまだまだ先が長そうです。
幸いにして、日本では現時点で「大流行」をしたわけではなく、クラスターを除けば「周りの人みんながコロナにかかった」という人は少ないと思います。現在、東京では1日200-300人程度の感染者が出ていますが、東京1400万人の人口を考えると、人口20万人程度の地方都市では3-5人程度の換算であり、不顕性感染を考慮したとしても大流行しているわけではありません。
それにもかかわらず多くの人が「コロナは大流行している」と感じ「いつどこでコロナにかかるかわからない」「自分がコロナにかかっていて人にうつすかもしれない」(これらは事実でもありますが)と疑心暗鬼になり「コロナ疲れ」を感じています。それに伴い、一部では「コロナいじめ」と感じられるような考えがはびこっているように感じます。
最近、岩田健太郎先生の著書「ぼくが見つけたいじめを克服する方法 日本の空気、体質を変える」を読みました。今度、改めて紹介したいと思いますが「空気ではなく、事実(ファクト)で考える」ことの大切さを繰り返し述べられています。
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岩田先生によると、いじめはこどもの問題ではなく、大人社会がいじめ社会であることが問題だそうです。現代社会ではマスメディアを筆頭に「叩く対象を常に探し、いったん叩いてよいと判断されたら徹底的に叩き続ける」といういじめがはびこっています。そして、叩いても良いと判断する基準は客観的なものではなく「空気」です。私自身も、この異常性に気が付きマスメディアをみなくなりました。
クラスターが発生したわけでもないのに執拗に叩かれるパチンコ業界。クラスターが発生した店でなければ直接的に関係ないはずなのに業界全体が叩かれるホストクラブ・キャバクラ。実際にウイルスを感染させる空間なのかどうかという事実よりも、本来ウイルス対策とは直接関係ない社会からの好感度、つまり「空気」で叩かれているように思います。コロナウイルス感染対策の本質的な問題は人と人との接触という普遍的な問題です。勿論、感染が広がるような場所に積極的に行っていいわけではありません。ただ、どう考えても飲食店を含めて多くの店が人と人との接触を避けるのは現実的には困難で、「夜の街」だけの問題ではないと思います。パチンコ店や「夜の街」への攻撃は論点のすり替えであるように感じます。
ところで、私はコロナと「闘う」という表現にやや違和感を覚えるときがあります。確かにコロナは味方ではありません。ただ、当然ですがウイルスが人間に対して敵意をもっているわけでもありません。感染症の死者に対して「犠牲者」という表現を使うのも違和感を覚えます。
選挙でも戦争でも「共通の敵」をつくるというのは人々の結びつけを強くする方法として最も効果がある方法の1つですが「悪」をつくることに一抹の不安を感じることがあります。そこかしこに「コロナとの闘い」「戦争」「Fight against」などの文字があるのをみて、人々の攻撃性がおかしい方向に向かわないか心配しています、というより既におかしい方向に向かっていると感じています。
特に、感染者自身やしっかり対策をした上でクラスターが発生した場所を責めるような風潮は絶対にあってはならないものだと思います。コロナウイルスは人類にとって「悪」や「敵」かもしれませんが、コロナウイルス感染者は悪でも敵でもありません。この当たり前の認識が欠如しているように思えます。
もちろんコロナウイルスに感染することは望ましいことではありませんが、ファクトベースで考えると問題になるのは「感染者自身の健康への影響」と「他者への感染性」です。それ以上でもそれ以下でもありません。他のかぜウイルスと同じように、一定の期間を過ぎたら、多くの人では自然に治癒して他者への感染力もなくなります。後遺症がなければファクトベースで考えれば無問題です。インフルエンザにかかった人を何週間、何カ月も遠ざけたりはしませんよね?それと同じ話です。ウイルスは自然には存在できないので、クラスターが発生した場所であっても、一定期間を過ぎれば、ファクトベースで考えれば当然他の場所と同じ扱いです。
このようなファクトを無視して、感染者を攻撃するのはただの「いじめ」です。
コロナウイルスの主な感染経路は飛沫感染と接触感染です。これは普通のかぜウイルスと同じです。コロナウイルスにかかるために必要な過程は普通のかぜウイルスと同じであり、感染者と接触することです。何か悪いことをしたから感染する「天罰」のようなものではありません。
コロナウイルスには不顕性感染があるので、誰が感染しているかは事前には分かりません。感染を完璧に避けるには、全く人と接触しないようにする以外に方法はありません。しかし、そんなことをずっと続けるのは不可能です。「コロナに感染した人を責める」のであれば「かぜにかかった人、全員を責める」姿勢でいないと理論的にはおかしなことになります。もし、そんな人がいたら、責められるのはその人でしょう。
コロナウイルスの感染様式は他のかぜウイルスと同じなので、どれだけ努力をしていても、感染するときには感染をしますし、人が何万人もいたら運悪く感染をする人も出てくるでしょう。その「運が悪い人を責める」のは筋違いだと思います。感染を避ける努力をしなくて良いという意味ではなければ、感染をしやすいようなことをしていても良いという意味でもありません。感染対策をしっかりしたうえで、感染してしまったのならば、誰が悪いわけでもない、単に運が悪かったのだという意味です。
私自身も、これを読んでいる方も人間生活をしていれば、いつコロナに感染してもおかしくはありません。コロナにかかった人が「いじめられる」世の中では、いつ自分がいじめられる側になってもおかしくないという状況を生み出します。明日は我が身なので、みんな疑心暗鬼になって攻撃的になります。既にそういう世の中になってしまっているように感じます。
コロナウイルスに関して中国の初動が悪かったために起こった「人災」だという意見があります。実際に色々、問題点も多かったのでしょう。しかし、他の国での感染拡大状況をみる限り、初動の時点で拡散を防げるようなウイルスではなかったと思います。コロナウイルスの厄介なところは、不顕性感染・軽症例が多く、病院からは全体像を中々捉えられないことです。おそらく日本やアメリカで同じことが起こったとしても拡散を防ぐことはできなかったと思います。
従って、私自身はコロナウイルスのアウトブレイクを人災だとは考えていません。しかしながら、現在のようにコロナウイルスに感染した人が「ファクト」を無視した「空気」によって差別を受けること。これはもう完全に「人災」で「犠牲者」と言えると思います。
こういった世の中では何が起こるか?
答えは決まっています。「悪いことはなかったことにする」隠蔽です。
岩田先生の本にも書かれていますが、起こってしまった悪いことに対して、必要以上の訴追をしようとすると、必ず隠蔽が起こります。もしくは隠そうという意図がなくても「あってほしくない」という「願望」が、いつのまにか「ない」という「事実」にすり替わっている、そういったことはよくあります。いじめの問題でいえば、いじめはあってはならないから、いじめなどなかったことにする。医療ミスはあってはならないから、医療ミスはなかったことにする。悪い経営成績は出してはいけないから、常に経営成績が上向きにしかならない。
コロナでいえば「感染者を増やしたくないから、疑わしい人でも検査しない」、「病院に行ったら検査をされてコロナといわれるかもしれない。そうしたらいじめられるから病院に行かない」。治療法が確立されていない現在、検査の主たる目的は感染拡大の防止なのに、完全な本末転倒です。
いま求めたい結果は「リスクの高い人に感染させない」ことです。そのためには「感染を広げない」ことです。禅問答のようですが「感染が広がるから感染する」のです。感染を広げないことを目的として、そこに導くための最適解を見つけていく。ただし道途中なので、その時々で最適解は変わってきます。軌道修正に対して揚げ足をとるような批難はしない。「やってる感」を出すための対応は不要。あくまで求めるのは「空気」ではなく「結果」。そのための方針はその時々で変わって当然です。必要があれば検査をして、必要がなければ検査はしない。思考停止はしない。
結果を出すには、ファクトを無視した空気による「いじめ」「偏見」と向き合っていかなければいけません。そのために、まずは事実を事実として、寛容な態度でありのままに受け止めるところからスタートする必要があります。
これまで現状を批判的な姿勢で述べてきましたが、コロナ問題は世の中が変わるチャンスであるようにも感じます。事実を無視した、必要以上の攻撃。周囲との同調圧力。前例がないことを認めない姿勢。こういった日本社会にはびこる問題に対して向き合うチャンスです。
岩田先生も楽観視しているそうですが、私自身もbeforeコロナからある大きな流れの中で、日本社会も変わっていけると楽観視しています。そんなに簡単に世の中は変わらない、日本はムラ社会だから変わらないという意見もあるでしょう。しかし、そもそも自分たちが変わらなくて当然だと考えている「常識」だってたかだが数十年くらいの歴史しかないことも多くあります。今自分たちが「常識」と考えていることも、30年経てば「クレイジー」だと考えられていることも多くあるでしょう。
いじめの本質的な問題は、他人や多様性に対する不寛容です。現代は「不寛容社会」といわれます。しかし、不寛容社会であることを認識している人たちがいる時点で1ステップ踏み出していると思います。既に若い世代では、少しずつ不寛容を克服する流れが出来ているように思います。私の小学生時代では男の子は黒のランドセル、女の子は赤のランドセル、それ以外のランドセルを背負っている子は「他の子とは違う」としていじめの対象になりました。しかし、いまではそんなことはなく、子供たちは自分の好きな色のランドセルを背負っています。人と違っても良いという考え方が日本社会でも広まってきています。
また、他者に理不尽な苦労を強制する姿勢も徐々に減ってきています。テレワークが進めば、成果が見えやすくなるため、なんとなく働いているようにみえる人、「働かないおじさん」は淘汰されていくでしょう。残業時間のような「根性や努力した量」よりも「結果」が求められる時代になっています。旧時代の代表ともいえる高校野球でも、ケガをしている選手が最後まで投げることを無理強いする、犠牲になることを美化する見方は減りました。むしろ、そういった考え方は「いじめ」であるという風潮が強まってきています。
コロナウイルス自体は単なる感染症ですが、それを通じて現代の問題が洗い出されているようにも思えます。コロナを乗り越えた先には、今よりも明るい未来が待っている。そんな気がします。そのためにはファクトベースで物事を考える、ゼロリスク信仰ではなく適切なリスクマネジメントを行う、結果を出すために本当に必要なことは何かを考えて行動するといったことが必要だと思います。
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